若紫と今源氏
「・・・その、だらしなく崩れた顔を、どうにか出来ねぇのか・・・」
朝から副長室に押しかけてきた弟分に向けて、何度目かの言葉を投げるが
相手は一向に気にした風も無い。
「だらしなく、って失礼ですねぇ。幸せに溶けている、と言ってくださいよ」
「・・・・・・・・・・・・」
確かこの男は三十八、九になるはずではなかったか・・・。
きりきりと痛む頭に手を添えた土方が深い溜息を吐き出した。
女だてらに男に化けて新選組の隊士として働いていた神谷清三郎こと
富永セイをこの男が娶ったのは十五年近く前だった。
女子である事よりも隊士である事を強硬に主張したセイだからこそ、
本来であれば身分詐称として隊規違反で切腹になるべきところを、
其々の関係から禁裏御守衛総督に任じられていた一橋公徳川慶喜と
京都守護職の会津公松平容保が後見するような形で擁護した。
結果として幕府の重鎮と自分達新選組の母体ともいうべき殿様達の思うままに
沖田総司と富永セイは夫婦として所帯を持つ事となった。
その一年後に長男の総三郎こと幼名祐太が生まれ、多少の波風はあれど
親子三人平和に暮らしていた。
けれどそれが変容したのは五年ほど前の事だ。
一子総三郎が生まれてから次子誕生の気配が無い事から、これ以上の子供は
望めないのだろうと誰もが思いだした頃に、突然セイの身体に異変が起こった。
最初は何かの病かと不安に苛まれて大騒ぎしていた総司と総三郎だったが
新たな命がセイの体内に育まれている事を知った途端、滂沱の涙と共に
歓喜の雄たけびを上げたものだ。
それからもまた大騒動だった、と土方が遠い目をする。
総三郎を産み落とす時にセイがどれほど危険な目に合ったか、自分がどんなに
不安で恐ろしい思いをしたかをトクトクと総三郎に語った総司のせいで
息子は母親を異様に気遣いだし、父親と共に恐ろしいほどの
セイ保護態勢を作り上げたのだ。
総司にしても息子に当時を語る事で、その時の恐怖を改めて思い出したのだろう、
箸より重たい物を持たせぬ勢いでセイに対して過保護になった。
当然たまらないのはセイ本人だ。
「い・い・か・げ・ん・にっ、しなさいっ!!!!」
洗濯一つさせぬとばかりについて周り、細々と手出し口出しをする亭主と息子に
阿修羅の雷が落ちたのも最もな事で、これ以上過保護に口出しするようなら
江戸の松本良順の診療所で出産まで過ごす、と宣言した。
セイの父と親しかった松本は、すでにセイにとっての父親とも言える立場だ。
実家代わりに身を寄せたいと言えば喜んで引き受けるに決まっている。
それどころかそのまま京へ戻さないと言い出す可能性だって否定できない。
両手を腰に当てたまま父子を睥睨している女子に逆らう事などできない
総司と総三郎は、渋々ながらセイの自由を認める事になったのだった。
そして伸びやかに、実に健やかに、妊婦としての生活を過ごしたセイは、
総三郎出産の時の騒ぎが別人と思えるほどすんなりと
珠のような赤子を産み落とした。
黒々とした艶やかな髪、きめ細かく滑らかな白い肌、可愛らしい小さな唇と
零れ落ちそうに大きな瞳をした母そっくりの娘を。
近藤を始めとして京の地で家庭を持ち、子を成した者は多い。
数年前には会津藩の藩校・日新館を手本として、隊士の子弟を教育する機関も
小規模ながら設けたほどだ。
それだけ周囲に子供がいても、どういうわけかセイの子供となれば
幹部だけではなく隊士達にとっても可愛さは別格らしい。
それはどこの姫様だ、と問いたくなるくらいの溺愛具合。
その中でも群を抜いて過保護で甘いのが・・・。
土方の視線の先では、未だ目尻を下げきった男が含み笑いを続けている。
「もう、若菜ってば可愛いんですよね〜。セイと一緒に行ってらっしゃいって
ちゅv なんてしてくれるんですよ〜」
異人の国の挨拶だと松本が教えたらしい頬への口付けは、土方も受けた事がある。
その瞬間に父と息子の腰で鯉口が切られる音がして、背中を氷塊が
滑り落ちた気がしたものだ。
すぐに気づいたセイが二人を宥め、家族以外にはしてはいけないと
若菜に言い聞かせた事で不穏な空気は収拾された。
だが今でもそれを根に持っているのか、こうして自分達だけが受け取る幸いを
事ある毎に垂れ流す男の娘馬鹿ぶりは病的かもしれない。
「それに今朝はね〜、“いつか父上のお嫁様になる〜”って。もうもうもうっ!
なぁ〜んて可愛いんでしょうかねぇ、さすがは私とセイの娘ですよねvvv」
ひんやりと冷え切った土方の視線も関係無いとばかりに、両手の平を頬に当てて
くねくねと身体を捩じらせながら総司の言葉は続いている。
兄である総三郎が生まれた時もベタベタに甘い父親だと思っていたが、
あんなものは序の口だったのだと思いながら、現実を遮断するように
土方は思考を切り替えた。
今のこの男には新選組筆頭剣士の気概など、どこを探しても見つからない。
セイと所帯を持たせた事が間違いだったというのだろうか。
それ以前、幼い頃から共に居た自分達の接し方が悪かったのか。
もしや鍛錬の名の下に頭を殴り過ぎた事で、どこかが壊れていたというのか。
思いつく限りの事を考えながら土方は眼前の男から意識を逸らし続けた。
――― コトリ
部屋の障子に小さな隙間が生まれた。
そちらに顔を向けると床の少し上から覗き込む黒々とした瞳と目が合った。
「・・・・・・覗き見なんてすんじゃねぇ・・・・・・」
土方の言葉に慌てて立ち上がった総司が障子を開くと、部屋の前の廊下に
ペタリと腹這いになった童女がいる。
「何をしてるんですか。そんな所で寝ていたら体が冷えるでしょう?」
父親に抱き上げられて急に視界が高くなった若菜が、目をきょときょとと動かした。
「あのね、ははうえが、おしごとのおじゃまはだめって。だから・・・」
仕事をしているのかを確かめようと、そっと覗き込んだというのだろう。
「あははっ、大丈夫ですよ。今は休憩中です」
愛娘の髪を撫でながら総司が元の場所に腰を下ろした。
てめぇはずっと休憩ばかりじゃねぇか、と毒づきたいのを堪え、
土方が若菜に問いかけた。
「で? 何か用か?」
今も隊の仕事を手伝っているセイと一緒に若菜が屯所へ来る事は珍しくないが、
総三郎が幼かった頃とは違って、幼児が隊内で遊ぶ事はあまりない。
敷地の隅に作られた修学所で、年上の娘達に相手をして貰う事になっているからだ。
それがわざわざ幹部棟の土方の部屋まで来たという事は、何か用件があるのだろう。
土方の言葉に開きかけた唇がためらうように閉ざされた。
けれど総司に背を撫でられて再び口を開く。
「あのね。わかな、ふくちょうのおよめさまになりたいの」
「あぁ?」
「わ、若菜っ?」
土方が眉間に皺を寄せ、総司が悲鳴のような叫び声を上げた。
「ちょ、ちょっと待ってください、若菜。今朝は父上のお嫁様になるって
言ってくれたじゃないですかっ!」
大の男が涙目で四つの娘に縋っている。
間違っても隊士達に見せられる光景ではないし、もちろん自分も正視に堪えないと
土方が目を逸らした。
「ちちうえのおよめさまは、ははうえだからだめだって」
「だ、誰がそんな事を言ったんですかっ!」
「あにうえ・・・」
「総三郎〜〜〜!!」
総司の眦が吊り上がった。
若菜が生まれるまではセイの取り合いをしていた困った父子は、
若菜が生まれて以降は愛しい娘であり妹を独占しようと
火花を散らし続けているのだ。
だが幼かった総三郎が子供の常として「大きくなったら母上をお嫁にする」と
宣言した時に、すでにセイは自分の妻だから駄目なのだ、と勝ち誇ったように
言い放ったのは総司だったのだから、息子の反撃も無理は無い。
それを承知していようとも、愛娘が自分に向けた宝玉にも等しい言葉を
打ち砕いた息子への怒りは抑えがたく、総司はフルフルと身体を震わせる。
そんな父を気にせずに若菜が言葉を続けた。
「じゃあ、あにうえのおよめさまになろうかな、っていったの。そしたら
あにうえはかぞくだからだめなのよ、ってははうえがいったの」
自分同様に天高く舞い上がり、次の瞬間には敬愛する母の言葉によって
地に突き落とされた息子の姿が総司の脳裏をよぎった。
斎藤の薫陶の賜物か、自分よりもずっと感情を抑える術を得ている息子が
可愛い妹に向かって表面上は微笑みながら、内心でだくだくと
涙を流している姿が目に浮かぶ。
歪んだ親近感を感じながら、それでも訊ねなくてはならない事を思い出して
若菜の瞳を覗きこんだ。
「それで! どうして! 土方さん! なんですか?」
「ちちうえ・・・こわい・・・」
大人気無く抑えきれない苛立ちが言葉の端々に出ていたのだろう。
若菜が怯えたように身体を震わせた。
「あほぅ、ガキを怯えさせてどうする。若菜、来い」
土方が片手を差し出すと総司の懐から転がり出た若菜がその腕に縋った。
巨大な岩が頭上に落ちてきたかの如くに顔を歪めた総司が畳に突っ伏して呻く。
「ひ、ひどい・・・。私はこんなに若菜を慈しんでいるのに、土方さんの方が
良いなんて、土方さんを選ぶなんて、土方さんなんてっ!!!!」
「うるせぇっ! 黙ってろ!」
悲嘆に暮れる弟分を一言の下に斬り捨てた土方が、若菜の顎を指先で持ち上げて
自分と視線を重ねさせた。
「で、なんだって俺なんだ?」
「だって、うきさんが・・・」
「浮之助さんっ? あの人がまた何か妙な事を言ったんですかっ?」
がばりと起き上がって近づいてきた総司を無視して会話が続く。
「ヤツが、なんだと?」
「およめさまになったら、ずぅ〜っといっしょにいられるよ、って。
わかな、ちちうえやははうえと、ず〜っといっしょがいいよ。
でもちちうえもあにうえも、わかなはおよめさまになれないって・・・」
「だから一人身の俺の嫁になりたいって事か」
語っているうちに涙で潤んできた瞳を目一杯に開いて、若菜がコクリと頷いた。
「でも、それだったら茂でも誰でも良いんじゃないですかっ?」
よりによって若菜よりもとんでもなく年上で、女子に対する誠実さなど欠片も無く
性格もクセが有りまくりな男を選ばずとも良いではないか、と
話に加われない事に拗ねて膝を抱えていた総司が懲りずに口を挟んだ。
「だって・・・わかな、ははうえとちちうえとあにうえのつぎに、
ふくちょ〜がすきなんだもの・・・」
恥ずかしそうに、でも嬉しそうに目の前にあった土方の首に両腕を伸ばして
抱きついた愛娘の姿を直視してしまった総司の全身が硬直する。
「くっ・・・」
幼子のあまりに率直な告白の数々に、とうとう土方の喉から笑いが漏れた。
「あのな、若菜。おめぇがここに居たいっていうなら、誰も出て行けなんて言わねぇぜ」
「ほんと?」
「ああ。本当だ。それに俺の嫁になるんだったら、もっと大きくなって
うんと良い女になるこったな」
「うんっ! わかな、い〜おんなになる!」
勇ましいとも取れる若菜の発言に、総司の口からは今にも魂が抜け出てしまいそうだ。
けれど若菜の瞳には父の姿など映っていないのだろう。
キラキラと輝く眼差しで土方の言葉を聞いている。
「納得したなら神谷の所へ戻れ。お前がいないって、みんな心配してるんじゃねぇか?」
「あっ!」
恐らく思い立った勢いで黙って出てきたのだろうという土方の予想は
当たっていたようで、若菜が慌てて立ち上がった。
ひとつの事に意識が向けば、周囲が目に入らないあたりは母親似なのだろう。
「おじゃましました!」
その母親の教えである“挨拶はきちんと”という行為だけは忘れずに
ペコリと頭を下げた童女が部屋を飛び出していった。
後に残されたのは薄い笑いを浮かべた男が二人。
けれど笑いの質は大きく異なる。
無邪気な幼子の言葉に珍しくも微笑を浮かべていた土方だったが、
至近から漂う異様な気配にそちらを振り返って口元を引き攣らせた。
「・・・・・・良い女になったら、ナンですって?」
じっとりと地獄の底から響くような声音が土方の耳朶に滑り込んだ。
「・・・・・・私は、自分より年上の息子なんて持つ気はありませんけどねぇ」
「そ、総司。・・・あ、あのな?」
細めた眼から覗く光は人斬りと呼ばれるに相応しい剣呑さを宿している。
さすがの土方でさえ身の危険を感じるほどに。
「・・・・・・要は、土方さんが一人身だから悪いんですよね?」
「おいっ!」
「判りましたっ! 近藤先生にお願いして、土方さんに相応しい女子を
選んで貰いましょう。そして即刻祝言を挙げるんです!」
「ちょっと待て、総司!!」
「待ちませんっ! そうしたら若菜も土方さんの嫁になるなんて事は
言わなくなるんです!」
「俺は嫁だのナンだのって荷物はいらねえって言ってるだろうがっ!!」
叫びにも近い土方の言葉に総司がニタリと唇を歪めた。
「・・・・・・そうですか。だったらいっそ荷物を全部下ろすってのはどうです?
さっくり頭を丸めて出家してしまう手もありますよねぇ。
かの偉大な謙信公の如く女人を遠ざけて一心に隊のために働く・・・。
これも立派な武士(もののふ)の姿です! そうですね、それも良いです!」
「てっ、てめぇ、娘馬鹿もいい加減にしやがれっ!!」
妻馬鹿な男は娘馬鹿でもあり、それは往々にして暴走するのだと
改めて実感した土方の叫びが屯所に轟いた。
この後、総司だけではなく総三郎からも向けられるようになった鋭く冷たい視線に、
土方の眉間の皺がより深くなったのは仕方のない事だろう。
けれど無垢な童女は相も変わらず土方にまとわりつき、当事者以外の者達に
笑いの種を提供し続ける。
新選組の副長が年下の義父を持つ事となるのかは、・・・神のみぞ知る。
拙宅カウンター八万打の感謝リクエストで声をかけてくださったJUN様へ進呈。
リク内容は
・第二子である娘にメロメロな親馬鹿総司で、娘はセイちゃん似
という事でしたが、ご希望に添えているでしょうか・・・(ドキドキ)。
今回は総司の愛娘溺愛っぷりを濃くしたかったので、母と兄の出番は無し。
いずれ父と兄による妹争奪戦も書いてみたいものです(笑)
JUN様、このような駄文ですが楽しんでいただければ幸いです。
背景以外はお持ち帰りOKですのでご自由になさってくださいませ。
リクエストをありがとうございました(礼)